☆11・17

 

こうして文章を書くのは殆どがキーボードかスマートフォンで、ペンで字を書くことが圧倒的に少なくなった。
手紙というのはいいものだと思う。
Aという人はよく手紙を書く人で、ハガキや切手をたくさん持っている。一生かかっても使いきれないほどあるので、もう買う必要がないそうだ。

手で書いた文字というのは心が伝わるし、その人そのものが表われる。
たまに手紙を書くと心がこもる。ある意味心が洗われて、すっと自分に戻ることができる。

これがパソコンで打ったメールになるとどうだろうか?
キーボードで打った文字では、手書きの文字から伝わるようなものは無いのか?
文章から滲み出す生の人間性というものは感じられないものなのか?
と考えると、そんなこともない気がする。
案外キーボードで打たれた文章からもその人となりが伝わる部分があると思う。

ヨガの問い合わせなどで知らない人からのメールを受ける。
それぞれに言い回しなどの特徴があったりするものだ。そのようなメールをたくさんいただき返事を返すということをしているからか、まだ見ぬその人の年頃や顔、そして人間性までもが何となく感じられるのだ。
努めて想像も予想もしていないのだけれど。。
この予想が必ずしも的外れでないことが多い。
なんとなく感じるのだ。なんとなく匂うのだ。いや、匂いではない。香るのだ。

一昨日の夜にヨガの問い合わせがあった。
男性からのメールだった。体験レッスンに参加したい旨が常識的な文章で伝えられた。
どういう人だろう。ヨガをしている人かな。なんか普通の人ではない気がする。普通な人ってどんな人かよくわからないけれど。
何故かネットで調べてみる気になった。
いただいたメールのアドレスを検索すると検索結果はなし。
次に名前を検索してみたら、プロサッカー選手だった。なんと!これは珍しい参加者だなぁ。
と、嬉しくなって翌日を迎えた。
若く体が強そうなスポーツマンだった。海外のプロチームで活躍しているそうだ。いまは日本にいるけれど、来月また海外に戻る予定とのこと。
ほんのしばらくでもヨガをしに来てくれればいいと思う。
サッカー選手でありながら全米ヨガアライアンスのインストラクター資格を取っているそうだ。
ヨガは人生にとっても必要なことだと思っているとのこと。こういう方が地元にいたのか。


あ、文字や文章の話を始めたのだった。
俺は、キーボドで打つ文字にも何かが宿ると思う。
人が書いたものからその人を受け取っている。たとえそれが機械化・記号化されたメールの文字であっても。
いまこのブログを書きながら思い出した。中島敦に、文字の霊を主題にした作品があったと思う。「文字禍」だったっけか。読んでみたくなった。


今朝もよく晴れているなぁ。

よい一日を。